2009年11月15日日曜日

hernan cattaneo

最初本当にサッカーの試合かと思った・・・。

2009年11月13日金曜日

mineral 12/11/2009, for a card



Alive [Illustrated] (ハードカバー)
Mario Testino (著), Gwyneth Paltrow (寄稿)
最近進めているプロジェクトのアイデアソース。

2009年11月9日月曜日

mineral 10/11/2009


“中性”について―コレージュ・ド・フランス講義 1977‐1978年度 (ロラン・バルト講義集成) (単行本)
ロラン バルト (著), Roland Barthes (原著), 塚本 昌則 (翻訳)
流し読み、理解度10%以下。テーマの選び方が恣意的でよくわからない。それとも他の本を読めば納得できるのか。
「範列から逃れるものすべてを、<中性>と呼ぶ。」(16)
「会話は、言語の果てしなく繰り返す性格(常時聖体礼拝)を現働化している」(38)
「沈黙:始めに、言葉の範列(諸々の闘争)の裏をかくために想定された武器」(53)
「繊細さが、無益な(機能を持たない)細部と戯れる倒錯である」(58)
「冗長さではなく補足を」(62)
「実際には一つの命題なので、「ウイ」は、先行する命題をふたたび取り上げ、確認し、繰り返す、冗長な表現である≠「ノン」は冗長な表現ではない。」(80)
「あの無限にどうでもいいもののうちに降りてゆけば、人生にたいする感覚を認めさせることができるだろうという直感である」(87)
「意味作用を発揮する対立は、特定の色のあいだではなく、非常に多くの場合、鮮やかな色と無色のあいだで生じる。」(92)
「<中性>は文法の重み(影)を耐え忍んでいる:=男性形でも女性形でもなく、あるいは(動詞としては)能動でもなく受動でもないもの」(126)
「<中性>の問題は名前を持たないことではなく、いくつもの名前を持つことであり、そのどれもが正確ではないことなのだ!」(205)
「闘争の回避は、西洋のイデオロギーによって、根本的に無効とされ、無価値とみなされている。」(218)
「どのような発話においても、「メッセージ」よりさらに重要なのは、「宛先」、「宛先をめぐる駆け引き」、「談話」、「談話の戦術」である。」(232)
「<書くこと>は、まさしく確実に言説の傲慢さの裏をかくような言説のあり方である」(273)
「死ぬことを忘れるな=自分が一度は生きたことを忘れるな」(284)
「真実に対する感受性ではなく、適合性に対する感受性というものがあるだろう。この感受性こそが構造主義を産みだした」(289)
「なぜなら<中性>は感情を廃絶するわけではなく、感情を導き、その「現れ」を調整するだけだからである。」(336)

mineral 09/11/2009


パスカル的省察 (ブルデュー・ライブラリー) (単行本)
ブルデュー (著), 加藤 晴久 (翻訳)
流し読み、理解度30% 彼のパンクな精神が好きなんだけれど、その精神そのものも批判の対象になりうるのかもしれない、ってことが書いてあるような気もする。
サルトル『知識人の擁護』
「マックス・ヴェーバーが分析しているが、音楽の「理性化」は舞踏との分化とともに加速した」(44)
「スコラ的性向とはつまり倫理的あるいは政治的視点に対して身を退く、距離をおくという姿勢のこと」(88)
「理性の台頭の歴史的条件というものがある。科学的と自負しようとしまいと、この条件を忘れた、あるいは意図的に隠蔽した表象はすべて不当きわまる独占、すなわち普遍の独占を正当化する。」(121)
「社会世界は相対主義者ではない。容易に相対化されることのないヒエラルキーを持っているのである。」(129)
「真理が存在するのは、真理は闘争の争点であるからである。(199)
「人間は決定されている(悲惨)、しかし自分がどう決定されているかを認識することができる(偉大)、そして諸決定を乗り越えようとすることができる。」(224)
「実践に参入している行為者は世界を知っている。ただし、メルロ=ポンティが示したように、認識する意識の外在関係のなかで成立するのではない知識によって知っている。」(243)
「特権の乏しい社会集団との競争において、自分の特権がハンディキャップになるのを阻止できなかった無数の貴族の例」(274)
「社会科学は、ときにはすべての客観的データに逆らって自己についての、また世界についてのみずからの主観的表象を構築しようとする行為者の努力にきちんとした場を与えることができない客観化の作業に還元することはできない。」(321,322)
「実は、社会世界は、その一部をなす者たち、その世界に含まれていると同時にその世界を理解する者たち、そしてその世界を生産する、その世界のなかで彼らが占めている視点からその世界を生産する者たちの認識の対象なのである。」(322)
「失業者は、自分の仕事を失うと同時に、社会的に認識され認知された役割が具体的に現実化し顕現する数々のものを失ったのである。」(378)
「絶対的権力は規則を持たないことを規則とする。」(391)
「すべての分布のうち、もっとも不均等な、いずれにせよもっとも残酷な分布は象徴資本の配分、つまり社会的重要性と生きる理由との配分である。」(409)
「制度とは、人を恣意性から救う権力をもつ恣意的存在である。」(416)

2009年11月8日日曜日

massive attack "united snakes"

2009年11月5日木曜日

mineral 05/11/2009


トルーマン・カポーティ〈上〉 (新潮文庫) (文庫)
ジョージ プリンプトン (著), George Plimpton (原著), 野中 邦子 (翻訳)
通読、理解度90% 溌剌としてる。

トルーマン・カポーティ〈下〉 (新潮文庫) (文庫)
ジョージ プリンプトン (著), George Plimpton (原著), 野中 邦子 (翻訳)
通読、理解度80% 読んでると割と気分が重くなる。『叶えられた祈り』の謎

2009年11月4日水曜日

mineral 04/11/2009


読んでいない本について堂々と語る方法 (単行本)
ピエール・バイヤール (著), 大浦 康介 (翻訳)
流し読み、理解度70% どこまでが本気で、どこからがギャグなのか。シニカルなギャグ。
「論じる対象をよく知らなくても、それについて正確に語ることは出来る。」(33)
「われわれが話題にする書物はすべて<遮蔽幕としての書物>であり、この無限の書物の連鎖のなかでの一つの代替要である。」(64)
「自分の本について言われていることが、自分が書いたはずだと思っていることと呼応していない」(122)
「教養とは個人の無知や知の断片化が隠蔽される舞台」(156)
「われわれには他人に向けた真実より、自分自身にとっての真実のほうが大事である。」(160)
「<他者>は知っていると考える習慣を断ち切る」(188)
「ある書物について語るということは、その書物の空間よりもその書物についての言説の時間にかかわっている。」(194)

2009年11月3日火曜日

mineral 03/11/2009


同じ時のなかで (単行本)
スーザン・ソンタグ (著), 木幡 和枝 (翻訳)
飛ばし読み、理解度50% この辺の時代の人は気骨がある。個人的にはその部分をこそ、引き継ぐべきだと信じる。
「これまでにも、美を何らかの意味で不朽のものにしようと願った者は、観念的な補強やすり替えを大々的に行ってきた。」(24)
「自然における美ははかないが、芸術における美は破壊されない。規範的に精神的高揚感をもたらす種類の美は持続する。」(25)
レオニード・ツィプキン『バーデン・バーデンの夏』
ヴィクトル・セルジュ『トゥラエフ事件』
「認知という知識の形態は、今では芸術と同定されている。」(186)
「思念は許諾を与える、そして私は、自分と異なる感情や生き方に許諾を与えたい。」(216)
「ベンヤミンが言うには、翻訳は訳出される言語の側が、原文である外国語の影響を受け、変化を起こす好機となる。」(253,254)
「異議申し立てをする場合、相手の力を過小評価しないようにすべきです。」(261)
「真摯であること」。それはこういう意味だったー「けっして冷笑的にならないこと」。」(300)
「偉大なフィクションの作家は二つのことをする。想像力の働きを通じ、避けがたいと感じられる言葉を通じ、生き生きとした形式を通じて、新たな世界、唯一無比にして固有の世界を創造する。そしてもうひとつの世界に応答する。」(300)



チャールズ・バベッジ―コンピュータ時代の開拓者 (オックスフォード科学の肖像) (単行本)
ブルース コリアー (著), オーウェン ギンガリッチ (編集), Bruce Collier (原著), Owen Gingerich (原著), 須田 康子 (翻訳)
流し読み、理解度60% 肝心の器械の仕組みが余りわからないし、そもそも説明が後半にいくに従い簡潔になってゆく。
「ニュートンは、数量を流動的なものと考え、その手法を流率法と呼んだ。一方、ライプニッツは、連続する差分を変化した数量であると考え、その技法を微分法と呼んだ。」(7)

2009年11月2日月曜日

sobre DJ y bailar

 レコード屋に行くとジャンル分けがなされているし、クラブのパーティにはテクノだかハウスだかとにかくジャンル分けされている。そしてdjが音楽を語るとき、そうしたジャンル分けをもとにしてそれはなされる。
 けれど踊り手側はどうだろう。サルサやバチャータなどに踊ることに慣れている人たち(それは通常正規であるかどうかは別として訓練を通して慣れる。言うまでもなくdjもある種の訓練を受けている。)を別として、そういったジャンルを余り気にしないと思う。ロックンロールやレゲエなど、すぐにそれとわかる「ジャンル」は別として。
 それでは彼らは何を基準にして音楽を聴き分け、これは踊れる、これはイケてる、といった判断を下すのか。
 日本人の場合はメロディアスなものに対する嗜好が強い。ラスマス・フェイバーやラリー・レヴァン直系のガレージサウンドを好む、という傾向にある。それらの音楽は「ポップ」だとか「多幸感」といった言葉で形容される。
 韓国や中国の男たちはヒップホップを好む。容易に男らしさや父権的なものと結びつく、イーストサイドのハードコアなヒップホップやリック・ロスなどのハスラーっ気の強いもの。それらの音楽で踊ることで彼らは、「やくざ」なかんじ、「歌舞伎もの」といった東アジアで長くかっこいい男子のイメージを表現する。女の子たちはそれに追従するかのようにR&Bなどでお茶を濁す。それはセクシャルな問題というよりは寧ろ、西洋文化への憧れといったものに牽引された結果である。
 欧米の人たち(ある晩語り合ったところによると、カスピ海の向こう側のやつら)は、おそらく音響に反応している。テンポやリズムの形態もある程度気にしているけれど、一番の基準は音響だ。つまり、重たいビートと深いベース。それらの音の響きはセクシーである。性的である。ただし、男っぽいとか、女っぽい、という特定のジェンダーに偏っていない。ただ単にセクシーなのである。この点がとても重要である。何故なら、男も女もこういった音楽を踊ることによって、自己のセクシャリティ、自分はいかにセクシーであるか、を表現するからである。もし、かかっている音楽が「女々しかった」ら、それにあわせて踊る男は「キャンプ」になってしまう。雄々しかったら、そもそも女の子は踊らない。確かに歌詞は歌い手によって男目線、女目線があるが、踊り手は本質的にはベースやビートの響きに反応している。

2009年10月29日木曜日

patron

 個人的にH&Mで買い物するのを控えているのは、質の問題よりも、しこたまぼろ儲けしてそうなクラブには缶ビールを持ち込む際の心のあり方に近い。
 ファッションを文化だと捉えたとき、プレタポルテが中心となっていることや、当たり前のようにファッションが社会学されることを考えれば、所謂リアルクローズも文化の範疇に入れるのは妥当だと思う。
 そして文化、というか文化活動が続くためには、パトロン、つまり買い支えする人、が必要不可欠だが、上の流れでいくと、私たちもその中に入っている。服を買うということは、ファッションで自己主張するという文化的身振りという意味以外に、パトロンになるという意味で、文化的行為であり、文化的活動である。シャツをH&Mで買うかオープニングセレモニーで買うかという選択は、自らのアイデンティティの主張とともに、どのような文化を支えていくのかという選択である。その様は、良心的な音楽を流しているクラブではそこで高くてまずい酒を買うとか、これは続かねばならないと信ずる雑誌を購読するのと同じだ。ここでわざわざ書くまでもなく、趣味人ならば日常的に実践している営みである。
 なぜこのような自明なことを書くのかというと、爾来売る方の都合ばかりが目立ち、買い手の役割が不当に貶められていると思うからだ。文化を担っているのは何も売り手だけではなく買い手もそうなのだという、おきまりの文化の受容論をここでは主張したいのだ。消費者は餌を与えられる犬のように何かを買うのではなく、そこには選択することによって文化を創っている。
 何もこれは売り手に対して喧嘩を売っているわけではなく、むしろ買い手側にその辺について意識的になろうぜ、と言いたいのである。そうなってくるとあらゆる買い物は、文化的選択を孕んだ行為ということになり、そんなの忙しいんだからいちいち考える余裕はない、という向きもあろう。ただ、これを実践できれば日本も先進国と称していいくらい豊かになったのだ、という話になる、と思う。